感情心理学を学ぶ駆け出し研究者兼マーケターのブログ

大学院と組織開発ベンチャーに属しながら感情心理学を肴にする日々の苦悩と葛藤を綴るブログです。27歳ですが37歳に見られます。

本来在るべき組織は、"人"の不恰好で不安定で、いびつで欠落した部分を愛せる組織ではなかろうか。

9月、NRI ハッカソン「bit.Connect」Hack for Workstyleにて、
『最優秀賞』と『野村ホールディングス賞』をいただきました。
(写真左が私、右は社長2人のうち1人)

f:id:yuki_kitamu:20171218212242j:plain

※このブログは、以前続けていたブログからほぼ全て内容を移管しています。残して起きたかったので、こちらに。

 

NRI ハッカソン「bit.Connect」Hack for Workstyleの詳細はこちら

entryweb.jp

 

弊社は「働くを面白くする」「楽しくチームを強くする」をビジョンに掲げ、通常のコンサル・研修では手の届かない一人ひとりの社員の日々のリアルな情報をチームビルディングに活かすというこれまでにないアプローチで組織変革をサポートさせていただいています。

実際にYeLLサービスにて行なっていることは、
・大企業にて社員一人ひとりに外部の「サポーター」がつく
・「サポーター」は、他の企業でのマネジメント経験者等、ビジネスパーソンとしてもメンターとしても素晴らしい方々
・「サポーター」が、社員と毎週、TELにて丁寧に対話を繰り返し、その心理的安全と、今後の打ち手を一緒に考える
というものです。

そして、上記の今までの営みを前提に、今後エールでは、NRI様に支援・アドバイスをいただきながら、今までのデータ資産を活かし、組織全体へのフィード・バックに関して、機械学習人工知能による分析を行う営みを始めていく、という方向性に進んでいきます。

 

色々ありまして創業当初からいる立ち上げメンバーはもはや社員の私のみなのですが、創業時に考えていたことがようやく見ていただけるモノになってきたように、昨日弊社にて受賞させていただいて思いました。

創業時に考えていたこと、それは『組織の本質は、あくまで生身の"人"であり、彼らを1人の個人として支援すれば、1人1人がイキイキと楽しく働けるようになる』ということ。


昨今では「働き方改革」と称して国も企業も様々なる事業や取り組みを成すようになってきましたが、まだまだ管理的な要素が強いことを否めません。

例えば、こんなものがありますね。
・残業時間を管理する
・勤怠を管理する
・総労働時間を管理する
・採用応募者のプロファイルを管理する
・心の状態を管理する
・日々の行動を管理する
・課題と実績を管理する      、、、などなど

結局は上層部が部下たちを管理するために行うものって、上層部からしたら欲しいから導入するわけですけれど、現場の面々からしたら本当に有り得ないと考える人がいるはずなんですよね。
行動ログ全部取られることに恐怖しか覚えないとか、自身が単にベルトコンベアに乗るモノのように捉えられていると感じるとか、組織のリソースとしてしか思われてないとか。

 

でも、人ってそもそも本質的に、管理しきれるほど整っている存在なのでしょうか。

生産されるモノであれば、全てを均一に整えることは可能でしょう。
でも、人は同じ工場で生産されているモノではありません。

1人1人には両親がいて、育った環境があって、周りにいる友人や仲間たちがいて、様々なものに対する喜怒哀楽なる感情があって、コトやモノや人を好きになる心があって、こうしたいという欲望があって、こうなりたいと願う未来があります。

誰1人として、完全に一致するということもなければ、欠落のない完全無欠な人間などいません。

何かを嫌ったり、何かに苦手意識をもったり、よく分からないけれど無理と感じたり、誰かに嫉妬したり、自身の弱さを呪ったり、途中で諦めたり、新しいことに恐怖を感じたり。
"人"はなんとも不恰好で不安定で、いびつで欠落した部分があります。

この欠落した部分に関して、今の組織などが成り立つずっと前は、どんな風に捉えていたのでしょうか。

 

700年ほど前に時を戻してみましょう。
1330年頃、吉田兼好が記した『徒然草』の中に、こんな記述があります。

『花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは』

"満開の桜や、雲一つない空に佇む月が本当に美しいのだろうか?
むしろ、これから咲こうとしている蕾の時期やほとんど散ってしまった桜、雲がかかっていて光が地表にこぼれ落ちているような月こそが、美しいのではなかろうか"

この記述はそのような意味ですが、これ以降、完全で均整の取れば美ではなく、ある一部は出っ張っていたり欠けている美のほうがより次元の高い美であるという感覚が武家や公家、僧侶、町民にまで広がるようになりました。

 

もう1つエピソードを紹介しましょう。

茶道の世界では『わびさび』という考え方があります。これは多くの方が聞いたことのある言葉かもしれませんね。
ざっくりと記すと、「質素でありながらも静けさや寂しさを感じるものなどを、美しいと思うこと」というような意味ですね。
この意味も、なんとなくご存知の方が多いかと思います。

欠けているところがある、通常だとマイナスだと取られるところがある、そこに美を感じる
という部分に置いて上記の『花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは』とも繋がる要素を感じていただけるかと思いますが、この『わびさび』という言葉が元来使われ始めた和歌の世界では、少し違う意味も持っていたようです。

それは、『言葉によって表現し尽くせない心の在り様、言葉を超えた心の変化や起伏を表現する』という意味。

 

『言葉によって表現し尽くせない心の在り様、言葉を超えた心の変化や起伏を表現する』

組織にとって、これはどのような意味を表すのでしょうか。
私はこれを、こう捉えます。

「ロジックや数字、理論では表すことのできない、1人1人の移ろいゆく気持ちや感情の変化」だと。

 

遥か昔より今に至るまで、"人"はなんとも不恰好で不安定で、いびつで欠落した部分があります。

そして、遥か昔はそんな欠落を『美』と捉える時代が在りました。

ロジックや数字、理論で満ち溢れる今の組織でも、1人1人の移ろいゆく気持ちや感情の変化は当然の如く存在します。

その移ろいゆく気持ちや感情も、組織にとっての"美"、つまり価値になり得るのではないでしょうか。


そう考えていくと、なんとも不恰好で不安定で、いびつで欠落した部分のある人を、管理しようだなんてもともと無理だと思いませんか?

少なくとも私は、無理だと思っています。

そして、本来在るべき組織は、"人"の不恰好で不安定で、いびつで欠落した部分を受け入れて、それを活かしていこうとする組織、つまり、"人"のそのような曖昧な部分を愛せる組織ではなかろうか、、、

そう思いながら、私はいま、仕事に向き合っているのです。


勇気をもって毎日楽しく前へ歩む人が増えるように。

そして、そんな人で溢れる組織が、増えるように。