感情心理学を学ぶ駆け出し研究者兼マーケターのブログ

大学院と組織開発ベンチャーに属しながら感情心理学を肴にする日々の苦悩と葛藤を綴るブログです。27歳ですが37歳に見られます。

文化の大量生産で、”本当に伝えたいこと”が伝わる時代はいつ来るのか。

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ふと、『「文化産業」立国に向けてー文化産業を21世紀のリーディング産業にー』

という経産省が平成22年に出した報告書を読んでいたのです。

http://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/mono/creative/bunkasangyou.pdf

 

すると、こんな記述がありました。

文化産業は、それ自体、これからの日本経済を牽引する可能性が大きい。
また、文化産業は、ソフトパワーとして、日本産業全体の海外展開の大きな力となると考えられる。

もちろんそうなのですが、なんとも難しいよなあ、、、と思っており、今日はそんな内容について。

 

 

国としては

実際、国が言いたいことはこの資料内に記されている通りですが、一部を転載したいと思います。

要は、日本には良いコンテンツがあるにも関わらずそれを活かせてないよね、というもの。

平成22年の内容ですが、ここで言いたい内容としては、今も変わらないでしょう。

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そもそも”文化産業”って?

この”文化産業”、日本では”コンテンツ産業”とも呼ばれているらしいのですが、”文化”と言っても大量生産できるものというニュアンスのほうが強いようです。

なんだか、1800年前後の産業革命時の思想を踏襲しているかのようで古めな気がしますね。

さて、そもそもこの”文化産業”という言葉はいつ生まれたのでしょうか。

 

言葉の起源としては、1930年代までに遡ります。

ドイツの理論家テオドール・アドルノがマックス・ホルクハイマーとの共著である『啓蒙の弁証法』(1947)のなかの一章、「文化産業——大衆欺瞞としての啓蒙」で特に論じました。

その内容を分かりやすく記してある記事を引用します。

資本主義経済における複製技術とそれにともなう大量生産・大量消費の枠組みのなかで、文化産業は生活への付加価値としての「文化」を利用し利益を生み出す、20世紀に特有の産業部門である。同書においては主に映画やラジオが想定されているが、それだけに留まらず、現代のポピュラー・カルチャーのあり方に言及する上で避けることのできない用語であると言える。

アドルノは、文化が産業として複製され大衆によって消費される現代の状況をこの概念によって示し、また同時に、その状況を管理社会として強く批判した。

彼による文化産業論の思想はエリート主義に貫かれており、受け手による情報の主体的で自由な変形のあり方を無視しているという批判がしばしばなされるが、この概念によってアドルノが問題化しているのは受容する大衆側ではなく、大衆を操作・管理しようと目論む体制が形成されつつある社会変化の側面であると言える。

artscape.jp

 

『「文化」を利用し利益を生み出す』、『大衆を操作・管理しようと目論む』、、、

それが”文化産業”です。

もちろん経済のため、文化の興隆のため、とても大切なことです。
でも、なんだか失う部分もあるような気がしてきます。

 

”文化産業”の象徴

そんな”文化産業”の象徴、それがアンディ・ウォーホル

この作品たちは、どんな方でも御覧になったことがあるでしょう。

特に、缶や、マリリンモンローの絵は有名ですね。

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彼が行ったのが、まさに上記の”文化産業”の定義に記される大量生産・大量消費。

そして、それを実現するための「流れ作業」。アートでこれを行うなんて、それまでなかったことなわけです。

今、日本ですと、カイカイキキ村上隆さんは同じような生産体制を構築していますね。

彼が自身のアーティスト人生で最も世間を驚かしたであろう点。それは、自身のアート作品に「流れ作業」を取り入れ、アートの世界に大量生産という概念を持ち込んだことだ。アーティストがまるで機械の一部のようになり、彼のアトリエはまさに銀色の「製造工場」へと化した。それまでは作品が「一点物」であることに大きな価値を見出してきたアート業界に対し、誰でも真似できてしまうこの大量生産型の手法は、「アートの価値とは何なのか?」という疑問を世界中のアーティスト達に真っ向から投げかけたと同時に、広告やビジネスと密に関わることから、アートという基盤を大いに揺るがすものだった。

目覚ましい経済発展を遂げる当時のアメリカ消費社会において、その流れにうまくアートを取り込んだウォーホル。その正体は、アーティストとしてのその奇抜な発想や技術もさることながら、紛れもない天才ビジネスマンだったと言える。それを証明するかのように、ウォーホルは次のような言葉を残した。
「お金を稼ぐことは芸術、働くことも芸術、うまくいっているビジネスは、最高のアートだよ。」

www.elle.co.jp

 

日本の”文化産業”の推進で、得るものと失うもの

このように、大量生産・大量消費が進むことで、もちろん得るものはあります。

すでに、映画や音楽などは大量生産どころか全てがデータになり配信され、それを一般市民が楽しんでいますし、その分お金は手に入ります。

もちろん、多くの人に伝えたいことを届けることができるでしょう。

 

ただ、その分失うものもあります。

受け手にとって負荷の高いものは、伝わらなくなる可能性が高くなります。社会問題や人類の在り方を問うような内容、自分自身の存在を揺さぶるような内容は、受け手に強い感情や思考の負荷を与えるので、それを大量生産の状態で伝えることは困難になるでしょう。リアルに受け取っているわけではないがゆえ、伝わる量と質がどうしても落ちるという面もあるかもしれません。

 

結局はバランス、と言えばそうなのかもしれませんが、実際に茶道を体験したことのない人がVRでバーチャル茶道を体験したというのと、茶道を実際に体験したことのある人では、おそらく感じるものは異なるでしょう。

 

いつかは、その大量生産と非大量生産で受け取れる内容に差がなくなるのかもしれませんが、今はまだできていないような気もしますね。

 

大量生産でも”本当に伝えたいこと”が伝播する、受け継がれるのなら良いのでしょう。むしろ、大量生産で伝わるのなら、その方が良いはず。

でも、それはこれからの創り手と受け手がどう在るか、それぞれの側に委ねられることでしょう。

 

こういうことを考えると、思うのです。

私はそのどちらの面でも、”本当に伝えたいこと”を受け継いでいくために少しでも貢献したいなと。