「存在目的を認知する」「スキルをつける」を教育現場において区分して考えねばならない理由
前回記したこちらのブログに引き続き、存在目的とスキルについて。
最近、教育現場を見させていただくことが多くありまして、その中で気づいたことがあるんです。
それは、存在目的を認知する、というのをスキルだと捉えてしまうとすごく勿体無いなあということ。
何かと言うとですよ、前回も述べたようにスキルを学ぶことに関しては今の時代、どんな場所でもどんな時間でもお金の有無を問わずできると思うんです。でも、誰かが定型化してある程度正解のある技能と知識のことをスキルと指すならば、存在目的の認知は人によってその方法も分かれ、正解もないんですよね。そんな中、スキルをつけるということと存在目的を認知するということを同居させて考えるとかなり人生の無駄遣い感半端ないんですよね。
私なりに考える、その背景(理由)がこちら。
1:誰しもに必要なスキルなんて、ない。そして存在目的は誰にでもあるし、認知する必要がある時代にある。
2:存在目的が分かって初めて自分の道がなんとなく見え、その道を辿るための手段としてスキルを駆使するのに、存在目的を認知する前に必要なスキルなんて分からない
3:とはいえ行動しないと存在目的を認知できないという話もあるが、にしては存在目的を追求する時間とスキルをつける時間のどちらに人が時間を割いている割合が高いかを見たら明白にスキル。
4:仮に一貫した教育プログラムで、数週間〜数ヶ月〜年単位にて進めている内容なら良いかと思うが、数時間〜数日のもので存在目的を見つけながらスキルをつけようとするものも多い。その場合、存在目的とスキルの両者を求めようとするとあまりに思考と感情の方向性が異なるため、自分の中で反発し合い効果が半減する(存在目的を認知したいという人が集まるところでスキルの話をすると、それを好む人はいても彼らのためにならない可能性が高い)
ほんと、正直スキルに偏った思考ってかなり多くて苦手なんですよね、、、
そのスキル、いる?
って、みんな常に問いかけた方が良いと思うんです。