感情心理学を学ぶ駆け出し研究者兼マーケターのブログ

大学院と組織開発ベンチャーに属しながら感情心理学を肴にする日々の苦悩と葛藤を綴るブログです。27歳ですが37歳に見られます。

「視野を自由に定義する」能力を欲しすぐに得ようとする行為は、そもそも視野を狭めた二元論であるというパラドックス。

f:id:yuki_kitamu:20180305081211j:plain

 

先日こんな記事を記しました。


ここで二元論に陥るのはほんと嫌だよね、、、というようなニュアンスのことを書いたのですが、そのあとジーンクエストというゲノム解析ベンチャー代表の高橋さんが書かれていたこの記事を読んで、すごく、すごく納得しました。

ここから言えるのは、人は無意識のうちに視野の選択を行っており、視野を自由に定義できないと、思考停止に陥りやすいということです。

同じように「AかBか」という2つの要素だけに視野を絞る二元論に落とし込むと理解しやすいので意味があるように見えますが、ほとんどの場合は思考停止しているだけで本質ではありません。

例えば、最近は既に食傷気味の「人間vs人工知能」のような話や、「仮想通貨vs法定通貨」のような話が典型的です。その二元論で考えても真理には一生たどり着けないであろう議論を延々と続けるのは、思考停止だとしても、わかりやすいからです。

でも、本質はいつも二元論の視野の外にあります。

 

二元論は二元論で便利なものではありますが、そもそも簡略化するために使用しているものを全てのように捉えてはいけないですよね。

 

よく昔から葉を見て木を見て森を見て、さらに月を見て、、、というような話は至るところに存在します。

とてもマクロな視点も然り、ミクロな視点も然り、どちらもとても大切であると。

ただ、よくあるのはその視点・視野を1つに定義してしまっていることが多いのは確かだし、高橋さんもそれについて言及しています。

 

ただ、念頭に入れておかねばならないこととして、人の性質があると私は思うんです。

多分、視野を自由に定義することに長けている人もいれば、全くできない人もいると思うんです。定義すること自体はスキルだとしても、マクロ思考寄りの人もいれば、ミクロ思考寄りの人もいるし、どちらともできる人もいれば、そもそも視野という概念すらないというケースもありそうですよね。

要するに、人によってその視野の自由な定義をしやすい人もいれば、しにくい人もいる、ということ。

 

そんな性質があるとしても、もちろん一個人という単位では誰もが二元論から脱して視野を自由に定義しなくてはなと思いつつ、仮にチームとして動くのであれば別にできる人にお願いすればいいだけとも思えます。

 

ただ心配なのは、高橋さんが書かれているようなこういう素敵な文章を読んで、『そうだ!私も視野を自由に定義しなきゃ!』とか言ってその能力をつけるためにひたすら邁進しようとする人がいるのも確か。

高橋さんにそういう風に行動させることに対しての意図はないのでしょうけれど、

「必要じゃん!→得よう!」というように思考して行動することこそ二元論的で視野の自由な定義ができていません。

「それって本当に必要なの?」「そもそもそれって自分の得意なことなのかな?」と一歩下がって考えてみることで、少しずつ視野の自由な定義を行う道に足を一歩踏み出すのではとも思えます。