『何かを表現できるようになりたい』とはよく言うものの、必要なのは『技術』ではない。
『自分はどんな表現者であるか』
みなさんは考えたことはあるでしょうか。
アーティストじゃないし、
そんなスキルないし、
できることなんてないし、
多くの方がそのように言うかもしれませんね。
実際に調べてみるとどうか。
日本語だと、アーティスティックな要素が強いように思えます。
英語だと『expresser』。
これを調べてみると、『ideas』という言葉、要するに『考え』がある人やそもそもの『表現するもの』自体を指しているよう。特にアートな文脈は、そこにはないですね。
そんなことを考えたのも、この前の休日の夜に友人から言われたから。
私も『自分はどんな表現者なのかな』とその瞬間考えてみたものの、特にその時は考える余裕がなく(すごく眠かった、、、)そのまま終わってしまいました。
だがしかし、その翌日の早朝からその友人から私の普段の生活とFacebookでの投稿を責められることになるとは、その時は思いもせず、、、
さて、翌日を迎えました。
私は本業とは別に、600年以上続く三味線のとある流派の家元のお手伝いとして、経営戦略や企画の設計などの支援をしています。そんなのがちらほらあったりするのです。
こちらはなんでも三味線音楽の源流を呼ばれる流派で、要するに三味線音楽の始まり。そんな家元の演奏会が今月の23日(土)に四ツ谷の紀尾井ホールというところがありまして
↓以下にチラシを
さて、私はその前日の晩に一緒にいた友人たちが多分興味を持つだろうと思い、改めて連絡をしてお誘いをしました。
『ここでお手伝いしててね、ご都合よければ来てね〜』と。
なんともゆるく。
そこで、その前日の晩にそこまで考えずにかつ発言しなかった私に対して、友人たちが牙をむきます。
『え、なんでそういうの言わないの?それこそ昨日話していた"表現者"じゃん。』
『せっかくいいことなのに、そしてとっても珍しいことしてるのに、なんで言わないの。』
『え、気を抜いてたの?甘えはよくない。』
『ねー』
『ねー』
『というか、仕事の話もいいのだけど、そういうのをFacebookで投稿したほうがいいと思うのよね。』
『そうそう、きたむの投稿、仕事仕事してて見る気もスクロールする気も失せるのよね』
『それな』
『うん』
『そういうのを"表現"したほうがいいよ』
『そうそう、てか、やるよね』
『決まり』
『じゃ』
牙をむいて肉を食らったあとは速攻姿を消す、、
まるでハ○○ナのようであるな、、、と思ったのはさておき、私はこれを聞いて『なるほどな』と強く思ったのです。
確かに自分としてはあくまで自然とやっていたことだし、好きな分野なので楽しいし、自分の普段の専門性を活かせばかなり貢献できるであろうことも分かっているのでゆるりとやらせていただいているのですが、人は他人からしたらできていると思えることも、できているということを自己認知をすることができにくいですね。
だが、英語的な意味合いだと、『表現者』は『考え』のある人を指します。えてして、アートを行う、アートのスキルを持つ者だけが『表現者』なわけではありません。
誰でも『表現者』になれるし、誰でも『表現者』と自らを思うことができるし、誰でも『表現者』と自ら名乗ることができます。
おそらく、私の友人たちは私の行為の中に『考え』を見出してくれたのかなと。(え、そうだよね??笑)
ただ、それとは逆に、技術だけあって『考え』のないというようなケースももちろんあって、それがえてして『表現』として人に伝わってしまうことに繋がったりするのですけれど。
※上記の家元の『考え』は本当に凄まじいです。世界中の音楽に通じ、音楽の目的を常に問い、音楽が人にもたらす事柄についてひたすら他者の気がつかないような視点でお考え。常に、学ばせていただいています。